墨俣一夜城

ここから始まったあの武将の出世街道。戦国ロマンの石たち

岐阜県大垣市墨俣、長良川と犀川の合流地点には、天守に金の鯱を戴く立派な墨俣一夜城がそびえ立っていました。かつて一夜にして築かれたという伝説を持つお城です。
城周辺は桜の名所として有名ですが、周囲は緑に覆われ、城と秋の空が水面にその姿をくっきりと映し出していました。

墨俣一夜城

橋の欄干にはひょうたんが飾られていました。
ひょうたんを馬印とした戦国武将といえば、豊臣秀吉ですね。

墨俣一夜城

この城は、秀吉がまだ木下藤吉郎と名乗っていた頃に築かれました。
身分が低く、ひょうたんの馬印もまだなかった時代です。

この墨俣城築城は、織田信長に仕え始めたばかりの秀吉にとって、大きな功績となりました。
短期間での完成は、彼の類まれな知略と手腕を示すエピソードとして知られています。
この功績により、秀吉は徐々に頭角を現し、後の天下統一への道を歩み始めました。

太閤出世橋(橋は旧字)という石碑が橋のたもとに立っていました。

墨俣一夜城


この橋が立身出世への第一歩となるかもしれません。
秀吉がこの地で築城したことは、彼の出世物語において重要な転換点とされています。
当時はまだ足軽だった秀吉が、類まれな才能と実行力を示す象徴となりました。
「この橋を渡れば、出世への希望を抱くことなのかもしれない!」勇んで橋を渡りました。

城内には、たくさんのひょうたんが奉納されていました。
絵馬のように、ひょうたんには様々な願い事が書かれていました。

墨俣一夜城

大きな石のひょうたんの先からは「太閤秀吉 出世の泉」と書かれた表札と共に、出世の泉が流れていました。
この泉は、秀吉の出世にあやかり、訪れる人々の成功を願って設けられたと言われています。
出世へのご利益があると信じられ、私もその願いを込めて、水を一口いただきました。
さて、今からでも出世は間に合うだろうか? そう考えると、なんだかワクワクしてきますね。

墨俣一夜城

墨俣城築城にまつわる逸話をむかし話風に書いてみました。しばしお付き合いください。

墨俣一夜城 〜秀吉出世物語〜

戦国時代の尾張の国に、木下藤吉郎という身分の低い侍がいました。
彼は農民から足軽に取り立てられたばかり。けれど、誰よりも働き者で、誰よりも知恵がありました。
あるとき主君の織田信長が、美濃の稲葉山城(いなばやまじょう)を攻めるための拠点を「墨俣」に築けと命じました。
しかしその土地は、斎藤家の勢力がにらみを利かせる、まさに敵の目の前。普通なら城を建てる前に攻め込まれてしまいます。
「誰かできるものはおらぬのか?」信長の大声が城に響き渡ります。
誰もが首をかしげながら黙り込んでしましました。そんな中、藤吉郎は静かに笑いながら
「殿、わしにお任せくだされ。」と申し出ました。

奇策の準備
藤吉郎は兵を率いて川へ出向きました。木曽川の上流から、材木を切り出し、筏に組んで流しておくのです。
さらに仲間たちと夜な夜な木を刻み、柱や板をあらかじめ組み立てやすい形に仕上げました。
「いざとなれば、一気に組み上げるだけじゃ!」
人々はその用意周到さに舌を巻きます。

一夜の築城
永禄10年のある夜、藤吉郎は密かに兵とともに動きました。
闇にまぎれて筏を川岸に引き上げ、準備していた材木を次々と組み上げていきます。
松明の明かりがあちらこちらに灯り、トンカントンカンと槌の音が夜空に響きました。
「急げ!夜明けまでに完成させるのだ!」
誰も眠らず、誰も弱音を吐かず、ただ必死に手を動かしました。
そして夜明けのころには、なんと立派な砦が姿を現していたのです。

驚愕の風景
翌朝、斎藤方の兵が川向こうから驚きの声を上げました。
昨日までは何もなかったはずの場所に、立派な城がそびえ立っているのです。
「な、何だこれは!」
敵兵は驚き大騒ぎになりました。
こののち、墨俣城は織田軍の拠点となり、美濃攻略の足がかりとなったのです。

出世への第一歩
信長は藤吉郎の働きを大いに褒めたたえました。
「木下藤吉郎、ようぞやってのけた!お主の知恵と働きは見事である!」
この功績をきっかけに、藤吉郎は出世街道をまっしぐらに上り詰めます。
やがて彼は羽柴秀吉となり、天下人太閤「豊臣秀吉」となってゆくのです。
墨俣一夜城
墨俣一夜城
墨俣一夜城

赤御影石の台座に座るのは、まだ足軽だった頃の秀吉(木下藤吉郎)です。
質素な姿でありながらも、未来を見据える力強い眼差しが印象的ですね。

墨俣一夜城

ところで、秀吉の出世物語で上流から木材を流し川は木曽川と記されていましたが、いま城の横を流れているのは長良川です。木曽川は少し離れた場所に流れています。なぜでしょうか?

墨俣一夜城

墨俣城が築かれた時代から現代に至るまで、川の流れは大きく変化しました。
戦国時代、木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)は今のように川筋がはっきりしていませんでした。
当時は大きな川をまとめて木曽川と呼ぶことが多く木曽川と表現され、古文書には木曽川と記されているそうです。

一夜城といわれるだけあって、場内は思った以上に狭く、奥行きも少なく建てられています。
正面から見た姿の印象と異なり想像以上にコンパクトです。
一夜にして築かれた城を遠くから見た美濃の武将たちは、さぞかし驚いたことでしょう。

墨俣一夜城

今回は、一夜城にまつわるお話と出世橋の石碑、木下藤吉郎秀吉の石像、出世の泉の石ひょうたんのお話でした。

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